更紗の里を訪ねて インドネシア 2000年12月〜01年1月   
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スマトラ島のバッタク布
オールドバティック

バタック布
鋸歯柄・藍の濃淡
 どの国も広い。何度もインドネシアへ訪れているがいまだスマトラ島には入ってなかった。
7,8年も前になるがバリ島でスマトラ島バッタク族の藍染め、鋸刃模様の布を何度か買った。
だがここ5年くらいは全く見かけなくなった。以前からそれが気になっていたので今回はぜひスマトラ島へ行こうと思った。
 インドネシアは5000をこす島々が東西につらなっている。どこから入国するのがベストなのか迷ったが、取りあえずフェリーに乗ってみたかった。
インドネシアの後、インドへも入りたいので、バンコクへ飛び、マレーシアのペナン島に飛んだ。そこからフェリーがスマトラ島のメダンへ出ている。出会う旅人にインドネシアへ行くというと、「バリ島以外は危ないですよ」という忠告。
 一時激しかったインドネシア国内の暴動も最近は沈静化していたのであまり心配もしないでいたのだが、スマトラ島のアチ州は激しい暴動が未だに続いている。
 しかもメダンはアチ州の隣の州になる。「やっぱり危ないのかなー。ペナン島で地元の情報を集めて危険を感じたら断念するか」と覚悟をしていたが、地元の中国系のおじさん達は
「大丈夫だよ。アチ州へはいらねければ」
 香港在住のイギリスのツ-リストは「僕、半年前に行ったけど。だいじょうぶですよ。ただメダンは大都会だからブラスタギに滞在するといいですよ。静かな小さな街でメダンからだとバスで40分ですよ」 
 翌日フエリー桟橋へ行きその翌朝の8時発の乗車券を買った。結構乗客が多いいようで、3軒目のフエリー会社でやっとチケットを買うことができた。その日はクリスマスイブの日。オーストラリアのワーキングホリデーを終えて帰国途中の若者と夕食を共にした。またまた若者の悩みのアドバイザーになったようなクリスマスイブだった。
 翌朝、フエリー乗り場に6時半に出かける。そこでマレーシャの出国手続きをしなくてはいけない。ものすごい人ごみだった。こんなにたくさんの人が移動するのは何故かと不思議だった。ツリーストらしき人は20人くらい。 フエリーは高速船とかで、ドア‐も窓もピタ‐と閉めきられ、エアコンがガンガン効いていた。私の希望はフエリーの甲板で潮風に吹かれる事だったのに、ひたすら寒さに耐える6時間だった。
メダンのフエリー着き場のインドネシア入国管理事務所も人でごった返していてメダンの街へ着いたのは午後4時過ぎ。お金を換金してタクシーでバスターミナルへ急いだが予定のブラスタギ行きのバスはもう無いとのこと。地元のおじさんがミニバスがまだあるからxxxへ行きなさいといわれまたタクシーに飛び乗る。
ミニバスは10分ごとに止まるのでブラスタギまで一時間以上も掛かってしまった。散々な移動であったが全く暴動も、その気配もなかったのでほっとした。

活火山ヘ登りました。
 ブラスタギに着いた翌朝、近くの食堂で朝食を食べているとき、日本へカブトムシを売っているというワリジに出会った。彼は日本へ何度も行っているそうで、日本語もかなり話すことができた。カロ人の部落へ連れていってくれたり、煙をもうもうとあげている活火山の山へも案内してもらった。山登りで汗をたっぷりかいた後、麓の温泉に入った。もちろん水着を着てだが。
 まさに温泉プールで10x40mくらいはあった。ほとんど男性ばかリで数人の女性がすっぽりサロンで胸から覆って湯浴みをしていた。緑に囲まれた山間の温泉は気持ち良かった。市場では山盛りのミカンやマンゴスチンを安く売っているし、小さな街は静かで居心地よい。だが先はまだ長い。バリ島まで行くのだから本州縦断以上の距離を旅しようとしているのだ。こんなところでストップしてはとトバ湖のほとりの街パラパトを目指す。 温泉の私

 トバ湖 ホテルの部屋から
 ツーリストが少なくって、ツーリストバスは最近動かないとホテルの主は言う。仕方が無いローカルのバスを乗り継いで4時間、やっとトバ湖の街、パラパトに到着。トバ湖は緑の山々に囲まれた静かなカルデラ湖。湖の中にあるサモシール島にバタック族は住んでいる。早速フエリーに乗り20分、サモシール島に着いた。目の前が湖という安宿に落ち着く。海だろうが川だろうがたっぷりの水の側にいてその音を聞くと人は何故か落ち着く。やはり我々生物の先史は魚なのだろうか。
 次の日の朝、そのホテルで働いているガイドにバッタク族の布を尋ねる。やはり市場はもう全く無く、織っている人も居ないそうだ。だが一般の民家を訪ねれば譲ってもらえるという。ガイドの案内で数件民家を訪れる。最後の一軒は数家族が暮らしていて3枚のバッタクサロンを持っていた。値段交渉をしていると近所のおじさんまで持ってきた。おそらくバリ島のお店の人がやってきては安く買っていたのだろう。もう誰も製作していないからと、とても高い値段を言う。仕方が無い以前の倍の値段だったが買った。
近所のおじさんは「この布は亡くなったお母さんが織ったものです。このお金で墓参りに行きます」と言っていた。
鋸刃の模様がそれぞれ少しづつ違うと思っていたらやはり売り物ではなかったのだ。それぞれの家庭で織られていたのだ。お祭りやセレモニーの時はまだ着用していると言っていたので、この後この人達は着ることはできなくなるので申し訳無いと思った。でもその時点では皆「いかに高く売ろうか」と一生懸命だった。
時の流れの中でこの布も離散し消えてゆくのかと寂しく感じた。「大切に扱います」とお礼を言ってその家を後にした。

バタック布のサロンを着たおじさん
「何を怒ってるんだ?」
 基本的に私の仕入れは直接着ている人から買うことはしない。仲買人である地元の人から買うほうが値段も適正価格だし私はそのものに感情を移入してしまうので値段交渉は好きではない。今回は仕方がなかった。またこの後、いやなことが発覚した。実はそのガイドは自分の家に私を連れていって買わせたのが判明した。そうならそうと言えばいいのに作為的に他の家に連れていったふりをする人間性は嫌いだ。この後ブキティンギへ行くのにバスがないので結局タクシーで行くことになった。そのガイドが提示した金額が安くは無かったがちょうど大晦日だったので仕方が無いかとOKしてしまった。だが後で他のタクシー運転手に尋ねるとやはりかなり高い金額だった。慌ててガイドを捜したがいないのであちこちで聞いて彼の家を訪れたら、まさにバッタク布を買った家だったのだ。とても不愉快な思いをした。

 翌朝6時、サモシール島を出てパラパトに行きタクシーでブキティンギ‐に向かった。長距離なので運転手は2人乗り込んでいた。2人でないと帰りが真夜中に運転をすることになるので危ないのだそうだ。
 南国のうっそうと茂った緑の中の曲がりくねった道を登ったり、下ったり大変な悪路だった。朝早く出発したので車で寝ればいいと思っていたが、寝るどころかがたがた道に急カーブが続く。後部座席で右へ左と身体をもてあそばれてしまった。ブキティンギに着いたのは午後9時。13時間のひどい道のりだった。
 車酔いには強い私も最後辺りは気分が悪くなり吐き気をもようした。ブキティンギの街は大晦日の人混みで夜遅くまで賑やかだった。
 ここインドネシアも年末、お正月は旅や里帰りをする人が多くって交通もホテルも混んでいる。予定していたホテルも満室。疲れ果てている私をホテルの人は気の毒がって従業員が使っている倉庫のような部屋のベッドを貸してくれた。「どこでも良い眠りたい!」とそのベッドに倒れこんだ。
 スマトラ島は赤道近くなのだが標高が高くて年間を通じて気温は26度くらい。湿潤で緑も多く、果物もさまざまな種類が実るし、静かな大きなトバ湖もありとても良い所だ。だが交通の便は最悪。山ばかリでなので道路の整備は整っていない。ゆったりとした旅程でないと何が起きるか分からない所だ。

 更紗の里を訪ねて
 翌日も昨日の疲れでボーとしていた。シングルの部屋を確保して一眠りした。でも昼過ぎには近くの骨董屋の店先でそこの主達と更紗談義をしていた。30代の主、スリマンは大きな目玉をくるくるさせるだけで英語があまり得意ではない。だが中国系の奥さんはとても英語が上手だった。古い更紗を数点買い、他の骨董屋を見て歩く。この街は結構まだ60年から80年くらい古い更紗があった。ただしダメージの少ないものを見つけるのは大変だった。その翌日も街をうろうろしていたが、ブキティンギ‐からジャカルタまではフライトを取りたかったのでチケットエイジェントへ行った。何と10日先までシートはないという。「ワ‐どうしょう!」と思いスリマンの店に立ち寄った。スリマンは居なくて奥さんがいたので事情を話していると奥さんが
「スリマンにバリまで連れていってもらったら。」と言う。
「でもここからバリ島までは何千キロもあるよ。そんなの車で行ける?」
「スリマンは何回か行ったことがあるわ。私も一度一緒に行ったことがあるから大丈夫」
と言われても半信半疑だった。ブキティンギでさえスマトラ島の端に位置しているのではない。スマトラ島、ジャワ島を縦断するのは日本の本州を縦断する以上の距離がある。
「何日かかるかしら」と私が尋ねると
「そうね4,5、日かな。でもどこか寄りたかったら1週間はかかるわね。」
「ねぇねえ、私の行きたい所へ寄ってくれるかな」
「もちろん」
この辺りで私はすっかりこの話に乗っていた。いままで訪れてみたいと思っていた更紗の里、パカラガン、チレポン、パレンバンという地名が頭の中をくるくる回っていた。そこへスリマンが帰ってきた。スリマンもあっさりと
「ウン、いいよ。バリ島まで連れてゆくよ」
「それでいくら払えばいい?」スリマンと奥さんはインドネシア語で話し合っていたが
「xxドル」と言う。

その値段は飛行機を乗り継いでもかかる価格だった。それに散在している更紗の里を効率的に訪れることができる。翌日の一月四日の昼、ブキティンギを出発することになった。
 夜間も車を走らせるのでスリマンの友達、ワリジも同行することになった。スリマンの奥さんが
「マサコの面倒をちゃんとみるんだよ。この英語の辞書を持っていきなさい」とスリマンに言っている。良く気のつく奥さんだった。
 ライチ、リンゴ、ナッツなどの食料と水を買いこみ、バリ島で売るのだと何やらたくさんの商品を積み込んだバンは13時半頃ブキティンギ‐を出発。
 私は広い後部座席で寝転がっていた。相変わらず道路は曲がりくねった悪路が続いていた。
途中何箇所かで、先にネットがつけられた竹ざおをもった人に車を止められる。ザカートといってイスラム圏で貧しい人達に寄進することを呼びかけているのだ。車で移動する人は少なからずお金持っているでしょということだろう。
 初日なので夜も車は走った。私はひたすら食べて寝るだけ。
朝7時頃、パレンバンに着いた。小さな地元の人が行く食堂で朝食を食べた。日本の雑炊のような野菜のスープの中にお米が入っていた。

 インド古渡り更紗
まだ早いかなー」といいながらスリマンは骨董街へ連れていってくれた。骨董街はぽちぽち店開きをしているところだった。家具、置物、布と古いものがびっしり並んでいた。
一軒づつ古い更紗を見て回った。ここでもダメージの少ないものはあまり無かった。古いものだからパーフェクトのコンディションのものはないが、少し引っ張るだけで裂けてしまうものはもう死んでいる布である。少々穴はあっても布の形をキープしているものでないとどうしょうも無い。このようなものを買うのは外国人か地元の骨董屋さんだけなので、私の姿を見つけた人達が近寄ってきて、スリマンに「うちにきてくれ」と話し掛けている。4,5ヶ所連れて行かれ、疲れ果てた。
 一軒の骨董やでチレポンのセレモニーに使う古い雲流のバティクを見つけた。新しいものもあったがパターンの繊細さは比べものにならない。 古いものの値段交渉をしているとそこの主は「新しい方を買ってくださいよ。これは東京のxxxさんがくると欲しがるものなので」という。私も知っている方の名前だったが、私が先にこの布と出会ったのだからと買った。このような古いものは本当に出会いが頼りなのだ。捜して見つかるものではない。3時になりやっと昼食にありついた、その後もう一軒行ったがたいしたものはなかった。
 スリマンが私に尋ねた。「まだ更紗が欲しい。どうする今夜ここに泊まる?皆がどこに泊まるのかとホテルを尋ねたので適当に言っておいたのだが、ホテルまで皆追っかけてくるよ。どうする?」
「私も疲れたわ。でも昨夜も車を走らせたのだからあなた達が疲れているでしょう。泊まりましょうか?」
「僕たちは大丈夫。交代で寝たから」
「これ以上追っかけられるのもいやだわ。じゃこの街を出ましょうか」
と今度はジャカルタを目指して車は走りつづけた。

セレモニー用の
ユニークなバティック 「雲龍」
中国の影響だろう
迫力のあるパターンで私の好きな一点

 は後部席でうとうと寝ているだけ。真夜中スマトラ島を出、ジャワ島に行くフエリーに乗った。さすがジャワ島に入ると断然道路がまっすぐになり、舗装されていた。
「スリマン、眠くなったら無理しないでストップして寝るのよ。事故が一番怖いわよ」とスリマンとワリジに私は何度も言った。
 ジャカルタに朝7時頃着いた。さすがに首都は大都会である。それだけに道路も広く、スリマンも目的地の骨董タウンへの道順を覚えきれないようで、車はうろうろ走り回っていた。スリマンは地図を持っていない。ワリジと相談しながら記憶と感だけでこの長距離を走っているのだ。
 やっと骨董タウンにたどり着き朝食をとった。赤米のおかゆにココナツミルク入りのデザートのような朝食を食べた。スリマン達は麺を食べていたが私は疲れたので甘いものが欲しかったのでおいしかった。
 スリマンはおじさんの骨董屋へ私を連れていった。そしてブキティンギ‐から持ってきた刀と鳥かごをおじさんに渡していた。その骨董屋に古い更紗もあったので見せてもらったがこれと言うものが無くってアチで作られたシルバーの花入れを買った。
 その辺り一帯が骨董屋が軒を連ねてあったが、その多くは家具を扱っていた。とにかくブキティンギ‐を出て2晩もベッドで寝てないので今夜はこのジャカルタで宿をとることにした。
スリマンの弟がこの辺りで警察官をしていてその弟さんの紹介で小さなホテルに泊まることになった。待望のシャワーを浴びて一休みした後、スリマンがまだおじさんに話があるというのでおじさんの店に引き返した。3時ごろ遅い昼食を済ました後、その夜3人とも7時ごろにはぐっすり寝ていた。


チレポンのバティック工房
 翌朝、6時、スリマンが私の部屋のドア‐をどんどんたたく。早いほうが道路が混んでいないからというのだ。半分眠った状態で再び車に乗り込んだ。
ジャワ海に面する港街のチレポンを目指す。昔海上貿易が盛んな頃は賑わった街で中国人、オランダ人がたくさん住んでいたそうだ。
チレポン独特の花や鳥の連続模様の更紗が作られていた。現在でも更紗の製作をしている所が数個所ある。中国から輸入されたシルクを素材にモダンな柄の花や鳥、抽象柄が穏やかな色で作られていた。ジャカルタから買いに来るのだと工房の人はいっていた。地元の人用なのでサロンとスカーフがセットになって売られていた。ただし昔と違い全ての色が科学染料。
房でバティクのロウ描きを見せてもらった。バティクを作る工程よりパターンを作りだすのが大変なのだろうが、同じパターンものが手描きで何枚も作られていた。そこで新しい比較的色のやさしい綿のバティクを買った。パレンパンで見た雲流の柄の新しいバティクも買った。その工房の近くにあった更紗のお店を覗いてみると、壁に古いバティクが掛かっていたので値段を尋ねたが「売り物ではないのですよ。もうこれは手に入らないから」と言っていた。その工房では日本からパターンを持ってきて注文する日本人がいるのだと言っていた。あまり気にいったものは無かったが紺色の濃淡で作られたバティクがあったので値段を尋ねるとさっきの工房の倍の値段だった。多分日本人が値段をあげたのだろう。その辺りは販売をしている店が何軒かあったがどれも同じようなバティクを売っていた。次の更紗の産地はパカロガン。チレポンから60キロとか。
 パカロガンに着いたのはもう陽が傾き始めた5時半。目指す更紗のマーケットは全部しまっていた。ここパカロガンの更紗がもっともカラフル、艶やかな更紗を製作していた。今までそんな美しい更紗をみかける度、この地名、パカラガンを何度耳にしただろうか。せっかくここまで来たのにと嘆いていると地元の人がxxを訪ねてみなさいというので出かけた。
 当然といえばもっともなのだがその工房が持っている更紗は全て科学染料、仕事も細やかでない。
 時の流れかと少々がっくりした。まだチレポンのほうが良い仕事をしていた。夕食を済ますと今夜も車は走って明日までにソガ染めのバティクの里、ソロを目指す。

パカロガンの華やかな
花柄バティック

 ソロに着いたのは朝8時半。街は朝のラッシュで賑わっていた。取りあずゲストハウスに今夜の宿を確保し、2時間ほどベッドに横になった。ソロは3,4、回訪れているので私のほうが、「まず王宮近くの骨董街へ行って、そのあとマーケットをチェックしたいわ」とスリマンに言った。ソロやジョグジャカルタは少し古いが他のものに再製出きるバティクがインドネシア中から集まっている。骨董街で数枚科学染料と草木染めが混じっているが繊細な仕事のものを買った。機械プリントのものは2,3、ドルであるが、やはりロウが入ったバティクは深みがあり良い。中には仕上げに砧でたたくそうだが手ざわりがシルクのようなものもある。
以前本で読んだのだがバティクの最上素材の綿布はmade in japanだそうだ。
 久しぶりにゆっくりと3人で夕食をレストランで食べ、ベッドでぐっすり寝た。
ブキティンギ‐を出て4日目になる。いつのまにか3人の関係は仲間意識が芽生え、互いに心配しあう間柄になっていた。
スリマンは「マサコ疲れたか?」「マサコどこへ行きたいか」と何時も尋ね、
時には「マサコあのバティクだったらxxルピだよ」と値段まで教えてくれるお人よしの所があった。
ワリジは時折、急にはしゃぎ始め、車の助手席でインドネシアのポップに合わせて踊ったり賑やかなやつだった。
私がいやな顔をするとスリマンがワリジに注意していた。


手描き更紗
ソロから次の更紗の里、ジョグジャカルタは車で2時間の距離。朝11時にはジョグジャカルタに着き、私がいつも泊まっているゲストハウス「アグン」に落ち着く。いつもほとんど満室なのだが、がらがらに空いていて、ゲストは私達ともう一組インドネシアのカップルのみ。支配人が「あの騒動以来ツーリストが少なくって困っている」と嘆いていた。
 ワリジはお兄さんがここジョグジャカルタでレストランを経営しているのだと言って出かけた。出かける前、私のガイドをすると言うので「ごめんなさい。私はココに何度も来ているのでその必要ないのよ」と断った。小遣い稼ぎをしたかったのだろうが・・
・早速、市場へ行きバティクの売り場を覗く。あれ見た事がある人がいると思ったら、インドネシアのバイヤーの間で有名な日本人のxx氏に出あう。彼はバリ島を出てスラウベシを回り北へ、スマトラ島へ行くと言っていた。私とはまるで反対のルートを移動しているのだ。世界は広くて狭い。特別のものはなかったが丁寧な仕事のバティクを15枚ほど買った。
さー今夜はここでゆっくり出きると思っていたらスリマンが「バリ島へゆくのはどうも夜走ったほうがいいみたい。山賊が出てくる辺りを昼間通過したいから」とどこかでそんなニュースを聞いたらしく言いだした。午後8時、急いで荷物をまとめて宿泊はしなかったがゲストハウスに一泊分の代金を支払いバリ島を目指して出発。
ジョグジャ
ソロ
 バリ島からジョグジャカルタへはいつもフライトを取っている。一度だけバスで来たことがあるが真夜中にバスが故障して、次々ローカルのバスに乗り継ぎ24時間かかったことがある。ジョグジャカルタからバリ島でさえスム‐スに走って18時間はかかる。

 ブキティンギーを出て6日目の午後1時過ぎ最終目的地のバリ島・クタにたどり着いた。
よくも無事だったとほーとした。夜間のドライブは対向車のライトが目に痛く疲れる。
 運転しているスリマン、ワリジに「事故らないのが一番よ。ゆっくり走って。眠くなったらどこでも車を止めて眠るのよ」となんども言った。実際,真夜中ふっと目が覚めると車は止まっていてスリマンもワリジも大いびきをかいて寝ていたことがあった。
 これで終わったのかと思うとちょっぴり寂しかった。まだまだ明日もあさっても3人で走り続けているのではと錯覚しそうだった。 なんとなくその日は同じゲストハウスに宿泊した。あまり心地の良いゲストハウスではなかったので翌朝私は違うゲストハウスに移った。
 メダンからここバリ島までに買い集めたものを郵便局から送りたいと私がスリマンに話すと翌日の朝、郵便局まで荷物を持っていってくれ発送の手伝いもしてくれた。スリマンがブキティンギ‐から運んできたものは売ると言うより友達に委託するらしく渡せば終わりだった。
 ブキティンギ‐のスリマンのお店で出あったバリ島在住のフランス人のバイヤーの荷物も預かっていたので3人でそのフランスのバイヤーの家へ行った。そこで昼食を御馳走になった。大きなプールつきの家に娘3人、ご夫妻と3人の使用人が住んでいた。さすがに優雅だ。日本人のアンティクのバイヤーでこんな生活をしている人はいないだろう。やはり文化の深さの違いだろうか。
 なんだかんだといいながらもバリ島に着いても3人で行動しているのがおかしかった。本当に仲間意識が定着したみたい。
 バリ島に着いて3日目、スリマンの奥さんのお母さんの訃報が入りスリマンとワリジはまた来た道をブキティンギ‐へ向かって出発した。私がバリ島を出るまでの3日間、一日中土砂ぶりの雨だった。バリ島は数えきれないほど訪れているが、こんな経験は始めてだった。いつもは雨期でも夜、スコールがあり、日中はからっと晴れているのに。ほとんどの時間をホテルで本を読んだりしてごろごろしていた。バリ島はもう古いいいものはなかなか見つからない。
     おわり