パキスタンからイランへの陸路越え   2001年7月      旅.top    Home
 2001年7月3日夜10時カラチ到着。早速空港で明日のクエッタ行きのフライトチケットを購入。空港ホテルのミッドウエイに行ったが何故か閉鎖中。パキスタン航空も不景気らしく赤字路線は全て廃止された。パキスタン航空でイランまで入る予定だったがカラチからテヘランへのフライトが無くなったのでそうかじゃ仕方が無い陸路越えするかーと思ったのである。
 イラン航空はカラチ発テヘラン行きの路線があったが高かった。カラチでテヘランへの往復チケットを買う手も考えたが、一度は陸路のルートを経験してみたかった。密輸ルートと言う人もいる。
 その日は仕方がないカラチ空港の側にあるエアーポートホテルへ泊まる。汚くってじめじめしているのであまり好きではない。ミッドウエイは近代的なモダンなホテルで良かったのに!
選択の余地はない。明日また空港へ行かなくては行けないのだから。
翌日、15時発のフライトだったが天候不順でフライトキャンセル!また汚いエアーポートホテルへ逆戻り。
この場合はパキスタン航空がホテル代、食事代は持ってくれるのだが、1日無駄になった。

 クエッタの街
翌日15時のフライトは1時間遅れで飛び立った。クエッタに着いたのは17時半。空港には数台のタクシーしかいなかった。もたもたしていると片言の日本語で身なりのきちんとした男性が話し掛けてくる。その人が電話で友人のタクシードライバーを呼ぶからというので一緒に街まで行くことになった。タクシーがくるのを待っている間その人と話をしていると、彼はアフガン難民で現在は日本の千葉に住んでいるそうだ。
 日本で何をしているの」と尋ねると
 「中古車の売買をしている」と言う。
 「どこに泊まるの。僕の家へ来てください」
 「ありがとう。でも疲れたからホテルへ行きたいわ」
 「君は僕を信用していないのでしょう」と笑いながら彼は言う。
 「いいえあなたの話振りからいい人と思うわよ。でもホテルでゆっくりしたいの」
旅をしていると地元の人から自宅へ招待されるが、お互いが気を使い過ぎて疲れるので滅多に同意しないようにしている。タクシーがやってきた。彼は友達とファルシーで話している。日本人の美人?のお客を連れてきたと得意そうだ。彼は日本で通称ヤスさんと呼ばれているというので私もヤスさんと呼ぶことにした。盛んに
 「日本人、みんな僕のこと好きだと言うよ。僕日本人みたいだろう」と言う。
彼はハザラの人だからモンゴル系である。日本人に間違えられることが嬉しいようすだった。いつのまにかタクシーはヤスさんの家に着いた。
 「私をホテルへ連れって行ってくれる」とドライバーに言っても
 「ちょっとだけ家へ寄ってよ」
と無理やりにヤスさんは私の荷物まで彼の家へ運んでしまった。仕方が無い彼の家に上がりこむ。
この辺りはアフガンの難民ばかり住んでいる地域だそうだ。アフガン難民の全てが難民キャンプに住んでいるのではない。多くの少しばかりお金を持っている人はこうして家を持ちここ、クエッタで何らかの仕事をして住んでいる。ほとんどの人が商売、つまり何かを売っている。彼の家は彼が日本で稼いだお金を送金して生計を立てているようだ。ヤスさんの家は結構大きな家で私が通された部屋は20畳くらいの大広間だった。
17歳の息子、3歳の女の子、それに奥さんとお母さん、叔母さんが住んでいた。お茶とお菓子を振舞ってくれた。息子はヤスさんより上手な英語を話し、コンピューターを勉強していると言っていた。
30分ばかリ話したので
 「ねーホテルへ連れていってよ」とヤスさんに言うと、
 「もう少し待って、いまビデオを見せるから」という。仕方が無い話を続ける。
 「どうしてヤスさんは日本で働くようになったの」
 「日本のテレビのTBSがアフガニスタンへ来た時、お手伝いました。その人達が今の仕事を紹介してくれた」
 「日本語はどうやって習ったの」
 「今も千葉で日本語習っている」と言って写真を見せてくれた。
 「この先生(女性)も僕のこと好きなんだ」と嬉しそうに笑っている。
 「家族と離れていても日本のほうがいい?」
 「僕、日本が大好き」
息子がアフガニスタンの戦争のビデオを見せてくれる。少しだけお付き合いで見たが、
 「ヤスさんごめんなさい。私このビデオはペシャワ‐ルで見たわ。ホテルへ連れって行ってよ。もう11時よ。遅くなってしまったわ」と私は遠慮がちに言った。
 「どうして僕の家はいやなの。ここに泊まっていけばいいじゃないの。自分の家だと思ってよ」
 「私は一人で寝たいの」
 「マサコは変わっているんだね」
 「そう、私は変な日本人なの」
やっとヤスさんは車を呼んでホテルへ連れていったくれた。車の中でお父さんのことを尋ねると
 「僕、ムジュハディーンだったんだ。そのせいでお父さん、お兄さん殺された。とても後悔している。お父さん、村の村長だった」
といつもにこにこしているヤスさんがこの時ばかりは悲しそうな顔をしていた。
遅くなってしまったので予定していたホテルは最悪の汚い部屋しかなかった。
一晩だけだし、遅いので他を捜すのも大変なのでベッドにバスタオルを敷いて寝た。


 翌朝早速、夕方6時発のイラン国境までのバスチケットを買った。久しぶりに家族と過ごすヤスさんなのでこなくってもいいわよと昨夜言ったのに、朝9時半には街を案内してあげるといってホテルへやってきた。
結局ヤスさんはその日私に振り回されてしまった。ここクエッタはインダス文明以前の先史文化があった所なので博物館へ行き(お粗末でほんの少しの展示のみだった)、ウズベキスタンのものを売っている店、3軒へ行き、挙句の果て郵便局から発送しようとしたら木曜日で郵便局は午後閉まっていた。イスラムの国は金曜日が休みなので木曜日は半ドン。しかたないヤスさんに発送までお願いして私は夕方のバスに乗ったのだった。(帰国したら荷物は届いていました)

 

    パキスタンからイランへ

 17時間の夜間のバス。運転手が隣の席のチケットも買ったらどうかという。ここはイスラムの国、男女一緒に座るのは、それも夜というのはよくないと言う意味。一度断ったが、考えてみれば小柄な私は2つ席があれば横になれる。運転手にやっぱりそうするわと言って600円のチケットをもう一枚買う。おかげで隣を気にすることなく寝れた。満席のバスの乗客の中で外国人は私だけ。真夜中一度休憩があったが、小屋がぽつんとあるだけでトイレはない。英語が話せる2人連れの若者と親しくなったので尋ねたが暗闇を指差すだけ。
 トイレだけは済まさねばと暗闇へと向かった。バスはひたすら何も無い暗闇を走る。もちろん外灯なんてありやしない。砂漠なのだ。朝、太陽が登り始めるとだんだんとクーラーが効かなくなる。少し草が枯れている所もあったが風で砂紋が移動している幽玄の風景にも出あった。
 もう11時にもなるのにバスはひたすら砂漠を走る。クーラーは全く効かないので、窓を開けたほうが風が入るかと開けたが熱風が入ってきて慌てて閉めた。持ち歩いている扇子で扇いでも熱風を掻き混ぜているだけ。
 途中、バル‐チ族のおばさん2人とおじさんがバスに乗ってきた。この2人のおばさん、私の隣の席が開いているのを見つけて二人は座る。おばさんたちはお尻をゆすり自分の座るスペースを確保すると私の顔を見てにっこり。その顔は「快適、快適」と言っている。当然私のお尻は座席の隅っこに押しやられるのである。この過酷な50度はある環境、譲り合いの精神は大切???

午後1時頃パキスタン側の国境タフタンに到着。
 私はほとんど無審査でパス。だが他の乗客はいろいろチエックがあり時間が掛かっていた。隣のビルがイラン入国管理事務所。これは助かった。あちこちで陸路越えしているが、たいてい出国と次の国の入国管理事務所は離れていて、時には30分間歩かされたところもあった。とにかく親しくなった2人の若い男性が建物から出てこない。暑い!肌が痛いほどの暑さの中、わずかな建物の影を見つけて座りこみ待つ。
ここからイランの一番近い街、ザ‐ヘンダまでは車で40分間。ただしバスはない。やっと建物から出てきた若者達が乗合の車を交渉する。私は少々お金を出しても早く乗りたいのだが彼らは値段交渉が成立しなくてあちこち交渉して回っている。
 結局この50度はある炎天下、何とトラックの荷台に乗ることになったのだ。ここにきて私だけ抜けるわけもいかず荷台の荷物の間に座りこむ。炎天下、砂塵がまともに顔に降り注ぐ、ひたすら顔まで荷物の間に埋め込み耐える。午後3時半やっとザ‐ヘンダ到着。若者達と分かれてバス停近くのホテルにたどり着き一番にシャワーを浴びた。やっと生き返った気がしたらとたんに空腹を思い出した。結構過酷な陸路越えだったのに暑さに強い私は元気だった。夕方5時、まだ夕食時では無かったがホテルの隣のレストランに行き
「お腹がすいて死にそう。何か食べさせて」というと
「チキンカレ‐しかないがいいか」というので
「いい、いい、それでよい」とパキスタン風チキンカレーとナンを食べやっと落ち着いた。
 やはり疲れていたのだろう夜8時にはもうベッドで寝ていた。お蔭で翌朝5時には目が覚めた。
ここザ‐ヘンダは特に何も無い。砂の城があるバムへ今日は行く予定。暑い所は朝早く移動するのが一番。さっそく近くのバスセンターへ行く。運良くバム行きのバス6時発が出る所だった。空席があり飛び乗った。パキスタンと違ってバスが大きくてきれい。道路は舗装されてまっすぐのびている。
 近くの席のイランのおばさんが熱いミルクティとケーキを振舞ってくれた。熱いティがおいしかった。
わずかな背丈の低い草と多少の起伏がある大地をただひたすらバスは走りつづける。
 ここイランでは街から街までの間はほとんど同じような風景。
 太陽が真上近くになってくると暑い。クーラーはここでも効かない。
 朝、熱いティをくれたおばさん達がこんどは凍らして持ちこんだ冷たいコーラ‐をくれた。みんなにいただくばかりで何もお返しが出来ず少々心苦しかった。おばさん達のやさしさと冷たいコーラは私の喉超しをさわやかに癒してくれた。ザ‐ヘンダカらバムまでは5時間のはずだがバムに着いたのは2時頃だった。

バム・ケルマン・ヤズド
 移動ばかリ続けたのでバムに着いた翌日は1日中ゲストハウスでごろごろしていた。中国、インドと移動してきた日本人のカップルが同じゲストハウスに泊まっていた。疲れているのか11時ごろドミトリーから出てきた。男性の方がダニか皮膚病か分からないが全身が痒いといってシーツを取り替えてもらっていた。仕事を止めて旅にでているのだそうだ。イランの後、半年の予定でトルコ、ギリシャ、東欧を周りまたトルコへ帰り、シリア、ヨルダンへ行こうかと思っていると言っていた。女性の方が元気でしっかりしていて彼をリードしていた。


イラン国内ではツーリストでも女性は顔、手以外は隠さなくてはいけない
 翌朝6時半ホテルを出てアルゲ・バムの遺跡へ歩いて行った。小さな街で人通りも少なかった。遺跡のゲイトは7時に開くと聞いていた。私が巨大遺跡のゲイトにたどり着いたのは7時過ぎ。3年前イランへ来たとき訪れたペルせポリスの遺跡ほど高度な遺跡ではないがこの遺跡は全て日干しレンガと土壁で出来ている。日本の昔の土壁と同じように日干しレンガの表面の壁には藁のような草が混じっていた。以前この遺跡の写真を本で見た。その大きさに驚きぜひ訪れてみたいとおもっていた。全体の城壁はまるで中世のヨーロッパのお城の形をしている。雨の少ない地帯だからこそこの砂のお城は形状を長い間保っている。ササン朝ごろからここには建物があったようだがこの形になったのは16世紀のサファビー朝。城内はモスクや学校、市場があったようだが今では全て土色の廃墟。一応一番高い所にある書記官が住んでいた建物まで行った。城の外は延々と続く褐色の大地が広がっていた。

   アルゲ・バム
      砂のお城

アルゲ・バム
 遺跡の帰り道、こうばしい匂いを放っているナン屋の前におばさんたちがプラスチックの籠を持って並んでいるのを見た。あまりにもいい匂いだったので私もその列に加わる。「何トマン?」と私が小銭を取りだし、おばさんたちに見せると。これこれとおばさん達が小銭をナン屋のおじさんに渡そうとした。むっつりとした無愛想に見えたおじさんだったが「いらん、いらん」と手を振っている。直径40センチはある大きなブラウン色にこんがり焼けたあつあつのナンを手に抱えてゲストハウスまで帰った。早速、塩味の強いチーズ、バター、ジャムをもらいあつあつのナンを頬張った。「美味しい!」パンだってナンだってやはり出来たてが一番美味しい。このゲストハウスでは私が食べ残したナンも、市場で私が買ってきたさくらんぼも桃もいつのまにか消えてしまい、私が欲しい時はまた買いに行かなければならなかった。

地下のチャイハネ
 翌朝例の日本人のカップルもケルマンへ行くと言うのでタクシーをシェア‐してバス乗り場まで行く。ケルマンまでは5時間。途中小さな街があったがまた同じ景色、起伏のある褐色の大地をバスは走りつづける。ケルマンには午後1時到着。ホテルに荷物を置くと早速バザールへ行く。ここケルマンはかなり古いバザールがある。その中に16世紀のチャイハネがある。建物自体が年代ものなのでその中を見てみたいと捜して行った。
何と入場料を取られた。もちろんチャイを飲めばその代金も必要。
 さすがに暑い国なのでチャイハネは地下にあり、とても涼しかった。
例の日本人カップルにまた出あった。二人とお喋りをしながらチャイとクッキーを食べた。もちろんチャイハネなので他のお客は水タバコを吸っていた。私は一度シリアで吸ってみたが美味くなかったので吸いたいとは思わなかった。壁には絵が描かれ、小さな噴水を持つプールもありなかなか雰囲気の良いチャイハネだった。
 日本人のカップルはここに泊まらないでヤズドまで行くと言ってバス停に向かった。
 はもう一つこのバザールにある17世紀の建物ハンマームが見たかったのでそこへ行く。このハンマームは美しいタイルで覆われていた。湯上がりの休憩所は各身分によってブースが違っている様が等身大の人形を使って再現されていた。 見つけた!私の大好きな更紗!ボクチエという風呂敷に使ってある。カニショールテクニックのボクチエもあった。更紗のジャケットを着ている男性もいる。チャイを飲んでいる人、水タバコを吸っている人、ここは社交場でもあったのだ。これは男性用のハンマーム。その次の部屋はお風呂があり、ダロックという垢すりの人がお客の身体を洗っていた。もちろん人形だが。
その風呂の近くにシャワー室のように小さく仕切られたブースが並んでいる所があった。さっきから私の側で話し掛けてくる中年のおじさんに尋ねると、
「ここはね。」と少し口篭りながら説明してくれた。男性が陰毛を抜いていた所とのこと。「どうして、抜くの?」と尋ねたが肩をすくめるだけだった。
この後もその男性は私の後を付いてきて「ボク以前日本人のガールフレンドがいたのですよ。レイコと言う名前」といって私の側を離れない。
 金曜モスクも見に行ったがこれはたいした特徴はなかった。まだ後を付いてきて盛んに説明してくれるおじさんに「ごめんなさい。私疲れたからホテルへ帰りたいの。どうもありがとうございました」といったらやっと私から離れてくれた。
 ここイランへのビザ入手でお世話になったイスファンの友人マホメットに電話をした。
マサコ、何しているんだ、連絡してこないから心配していた。早くイスファンへ来いよ」と言っていた。
翌朝、ケルマンからヤズドへバスで行った。4時間ほどでヤズドに着いた。
 一泊20ドルのホテルへ行ったが部屋を見せてもらうと窓もないお粗末な部屋だった。そのホテルの側にいた靴磨きの男の子にガイドブックを見せて他の安いホテルを指差すと知っていると首を振る。
その子に荷物を持ってもらい案内してもらう。もちろんその子にチップをあげた。
 そのゲストハウスは9ドルだったが清潔だった。そのゲストハウスには3人の日本人の若者が泊まっていた。スペイン人、イタリア人と賑やかなホテルだった。
 ここではどうしても沈黙の塔へ行きたかった。郊外にあるのでタクシーで行かないといけない。どのガイドも高い値段をいう。たしか20ドルだったと思うが。一緒に行く仲間を捜そうと思っていると、フランス人3人の女性グループが行くと言うのでいしょに行くことにした。
が、そのあとイタリア人の男性が一人3ドルの交渉に成功。私もそれに同行することにした。着いたばかりの日本人の男性一人もそれに加わることになった。結局タクシー3台で夕方沈黙の塔へ向かった
左の写真の中央が沈黙の塔
塔の中の遺体を放置して鳥装にしていたところ

 沈黙の塔は世界で最初に体系づけられた宗教といわれているゾロアスター教(拝火教)の鳥葬を行っていた場所のこと。現代では政府が廃止命令をだし、この沈黙の塔のある丘の麓に埋葬されている。ゾロアスター教は火、水、土を神聖視していて土を汚さないよう遺体を鳥に食べさせていた。
チベットの鳥葬とどういうかかわりがあるのだろうか。沈黙の塔は女性用と男性用がある。急な丘への道を登ると石で組まれた円柱型の塔がある。そこへ観光客の女性が入れるようになったのはつい最近のことだそうだ。入り口はとても急な崖になっていて他の男性に手を引き上げてもらってやっと塔の中へ入った。中央が大きく丸く低く掘りこまれていて、石ころがごろごろしていた。そこへ遺体を投げ入れていたそうだ。現代はそのような痕跡はなかった。
 男性が葬られる塔へ行ったのだが、ちょうど向かいの丘に女性用の塔があり夕日に染められてひっそりとたたづんでいた。しばらくそこで夕日が沈むのを見ていた。
 この後街に帰り、例のイアリアの男性がまたリーダーシップをとり、みんなでチャイハネになっているレストランへ行った。このチャイハネは新しいものだが様式はケルマンにあるチャイハネと同じものだった。
古い街のなかにあろ、周囲はすべて高いレンガの塀ばかり。道は曲がりくねって細く外灯もない暗闇。絶対に一人では来れない所だった。日本人の若い人達と食事へ行ったり、金曜モスクでなぜかたまたま取材していたこちらのラジオ局の人のインタビューを受けたり、骨董屋を覗いたりとヤズドには4日もいた。