メグワル族の生活     カッチ湿地帯 ・インド   2002年1月     旅TOPへ  Home

メグワルの女性
中央は
日本人のメグワル
 インドの中でも隔離されたようなカッチ湿地帯。インド西部、パキスタンとの国境に位置する。この辺りはヒマラヤ山脈の隆起と共にに海底が陸になった。島が大地になった。塩分を多量に含む土壌は作物の成長は望めない。モンスーンの時期は大量の雨が大地を覆う。そんな苛酷な自然環境の地でも人々は生活を営んでいる。自然に寄り添って暮らしている。女たちは自らを美しく装い、不毛の大地の花となる。刺繍をたくさん施したカラフルな衣装、大きなシルバーのネックレス、腕を覆い尽くすブレスレット。不毛の大地の花はたくましく生の営みを何世代も越えて続けている。
ラバリ族、ムトバ族、アヒル族、スーフ族、コヒ族、メグワル族とたくさんの少数民族がこのカッチ湿地帯、ラジャスタン、パキスタンのシント地方に暮らしている。
 2000年にここを訪れた時一枚の古いお布団を買った。アプリッケがほどこされ、全体は刺し子になっているのだが、そのアップリケののびやかな柄と色、一枚の美しい抽象絵だと思った。帰国して、そのお布団を見る度に感激し、どうしてもこれを使っていた人々の生活が知りたいと思った。今回は村へ滞在する予定でインドへやって来た。事前にガイドのサリムにEメールで尋ねると可能だという返事はもらっていた。
 アーマドバドから夜行のバスでブジ(カッチ湿地帯の中心の町)へ向かう。バスが運行していてほっとしていた。何しろ時期が悪い!パキスタンのテロリストがデリーの政府の建物を破壊するという事件がおこり、パキスタンとインドは緊張が高まっている。実際、カシミールの紛争も激しくなり、その下に位置するラジャスタンのジャイサメールでは住民が避難しいると新聞は報道している。また緊張がたかまれば核兵器を使用する可能性もあると報じていた。
 そんな時にパキスタン国境にある村を訪れようとしているのだから情報には神経質にならざるを得なかった。ただ基本的にバスが運行していれば緊急事態ではないという判断はできる。こういう情報は常に流動的なのでその時々に地元の情報、雰囲気は敏感に感じ取らなくてはいけない。
ブンガ
地震前は全ての家がこのように土壁、葦の
屋根だったのだが・・・
壁に思い思いの絵を描きます
 ガイドのサリムも「良く来たね。来ないかと思っていました」と言っていた。
この前来た時は村へ入るのに許可書が必要だったのだがいらなくなったとのこと。ブジには空軍基地があるので国境までの道路は整備されている。だがそこから村へ入る道はない。したがってガイドなしで村へ到達することは出来ない。
 私が滞在するホダカ村、メグワル族が住んでいる村はブジから60km、国境まで40kmの地点にある。人口800人くらいの小さな村。お店も畑もない所でお世話になるのでブジの市場で野菜、果物を買って持っていくことにした。
 タクシーをチャーターしてガイドと共にホダカ村をめざす。この辺りは50年前に植林されたアカシアの木が道路沿いにあるが、他は国境に続く平らな大地。大地はひび割れ塩を吹いている所も見かけた。 
 2年ぶりに訪れたホダカ村は様子が一変していた。2001年1月の大地震が多くの家を崩壊してしまい、土壁の丸い家はコンクリートになり、葦だった屋根は瓦になっていた。私がお世話になるマルワダ家も一戸の家は完成していたが2戸はまだ建築中だった。直径5mの丸い家の部屋は一つだけ。したがってもっと部屋が必要な場合はまた同じ家を作ることになる。作物を作ることは不可能だが土地ならいくらでもある。この家の長男が2月に結婚するそうでお父さんは新しい家作りに毎日忙しくしていた。この家の家族はお父さん、お母さん(40歳代)、結婚間近な長男、テジャ、長女のバヤン、次男のメガ、末っ子のプレンジの6人家族。
この家族はカーストの外の人たちなのでハリジャン。ガンジーは神の子と言う意味で最下層の人たちをハリジャンと呼んだ。私のチャーターしたタクシーの運転手は「ハリジャンと食事は出来ない」と言って、昼食を一緒にするよう誘ったが食べなかった。ガイドのサリムは昼食を済ますとブジへ帰っていった。
お父さんがほんの少しだが英語が話せるだけで後はボディラングィシュが頼りという環境で5日間過ごした。お母さんは笑顔が素敵で、カメラを向けるとポーズをとってくれる。ガイドのサリムとお父さんが友達なのでサリムが時たまツーリストを連れてくるので外国人慣れをしていた。

お兄ちゃん2人は何処かへおでかけ
「プリ(揚げチャパティ)美味しいよ」
と末っ子のプレンジ

娘のムりン
  食事
朝はカレーのおかゆかカレービーフン叉はチャーイのみ。昼食、夕食はカレーにチャパティとライスだった。何時もは一日昼、夜の二食だと言っていた。
 チャパティもあっという間に出来てしまう。娘のムリンが粉をネットのついた振るい器で振るい、適当に水を混ぜながら練ってゆく。一まとめになったらさらに5分くらい練った後形を作くる。チャパティを作っているのを見ることは初めて。家に招待されてご馳走になったことは度々あるが。いつも不思議なのがまん丸で、同じ大きさ。手で作ってこんなにきれいなのが出きるのかと疑問に思っていたが、お母さんの手で作り出されるチャパティはまさにまん丸、同じ大きさ!私も挑戦したが楕円径のチャパティになってしまった。毎日、毎日作ればこの技に到達するようだ。簡素な石2個があるかまどに小枝を炊きつけフライパンをのせて焼く。プリは少し厚めに作り、油であげる。カレーは鍋に油を少し注ぎ野菜を炒め、なにやら5種類くらいの香辛料をお母さんは適当にばらばら鍋に投げ込む。ここが美味しいカレーの秘密?

お母さん
本当にシンプルな素材、キャベツだけとかオクラだけというカレーなのだがとても美味しかった。そして食事の準備万端整うと、お父さんがヤカンで私の手に水を注いでくれ、私は手を洗う。右手でチャパティを千切り、カレーをつけて食べる。オイシイ!何よりチャイ以外食間には何も食べないので美味しいさも増す。ハングリーイズ ベストソースと言うわけだ。
調理道具も鍋2個、フライパンのみ。お肉など切りにくいものは足の親指にナイフを挟み、肉を手前に引いて切る。水牛を2匹飼っていてその乳を搾り、チャイのミルクとして使っていた。またお母さんが地面に座り込んで棒にロープを巻きつけ、両手でロープを左右交互に引っ張ってミルクを掻き混ぜてバターを作っていた。新鮮な食料はこのミルクだけである。玉ねぎ一つでもそれは貴重な食料で家族の一食の副食となるのである。牛の餌は市場で買ったのだろうが、綿を摘み取った後の殻に他の飼料を少しと水を混ぜて与えていた。これは次男のメガの仕事。
長男のテジャは炭焼きが仕事だった。毎朝9時ごろ自転車で出かけ夕方帰ってくる。アカシアの木を直径1mくらいの円錐形に中が空洞になるように積み、それを土で覆い火をつけて焼いて炭をつくるのだそうだ。その炭は決して自分達は使わない。街へ持ってゆき売り、小麦粉を買ってくるのだ。テジャはこんな村に住んでいてもやはり若者、毎朝きれいに櫛で髪をとかし、こざっぱりとした服装で出かけていた。お父さんは皮のハンドクラフトの職人なのだが、私の滞在中は家作りに遅くまで勢を出していた。セメントを塗り、色の吹き付けは手で廻すと遠心分離の原理で壁に塗料が付着するといった手動の機械?を使っていた。
家をを作る素材はNGOから支給されたが作るのは自分達でしなければいけない。
 子供達も屋根へ瓦を運んだり、セメント用の土を振るいにかけたりと末っ子プレンジ7歳もしっかりお手伝いをしていた。お父さんもお母さんも別にあれこれしなさいという言葉をかけている様子はなかったが。

お母さんがバターを作っています。

プレンジの頭を洗う
お母さん
一番驚いたのは皆よく働くということと清潔好きであること。インド・ハリジャンとなると汚い、道路に住んでいるといったイメージがあるが、人さまざま。
時にはこのように少ない水で体を洗う。中庭(広場)は娘のムリンが1日2回は掃いていた。一度はお母さんが掃き方が悪いと娘の箒を取り上げて教えていた。この家で昼寝をするのは私だけ。何しろこのような環境は何をするにも時間が掛かる。水も井戸まで汲みに行かないといけない。忙しく動き回るというより何時も皆何かをしていた。

ムリンとお母さん
親娘の語らいのひととき

掃除をするムリン
お母さんは手がすくと、私に民族衣装を着せてくれたり、セレモニーのときにつける大きな金の鼻飾りをつけて見せてくれた。刺繍もしていたが娘のムリンに教えるのは見かけなかった。
娘のムリンが私の手を引っ張って部屋の中へ連れてゆく。そして口紅塗る真似をして手を出す。若い女の子、お化粧に興味があるようだ。化粧しなくても十分きれいよと英語で言ったので理解出来なかっただろうがあげなかった。こんなにカラフルなきれいなお洋服を着ている彼女。それだけで十分美しい!

生徒達
ホダカ小学校
ある朝、9時ごろ次男のメガと末っ子のプレンジが学校へ行くのに連れて行ってもらった。道なき道を近所の男の子とも一緒に歌いながら歩くこと15分。昨年の大地震で学校は崩壊し、テントが学校だった。学校側の宿舎から顔をタオルで拭きながら先生がでてきた。「学校は11時からなのですよ」といいながらテント内へ案内してくれた。
生徒は男の子ばかり15,6人。ノート代わりに小さな黒板を子供達は使っていた。科目を先生に尋ね
ると全ての科目とのこと。
ホダカ小学校
まり長くお邪魔してはと帰ろうとしたがハターと困った。辺りはアカシアの木が所々あるが、粒子の細かい(小麦粉くらい)砂の大地のみ。帰り道が分らない!どうしょうと困った顔でメガの顔を見た。言葉は通じなくてもちゃんと彼は私の表情を読み取ることが出きる。「心配しないで、僕が家まで送るから」とメガは立ち上がりテントの外へ出てきた。そして帰り道、メグは砂の大地を指差す。そこに私のゴムぞうりの跡が点点と・・・・。彼は言っているのです。「マサコ、これはキミの足跡だよ。これをたどって帰ればいいのだよ」私はハ!とした。全く考えつかなかった。私のサバイバル能力はゼロに成り下がってしまっている。文化とはなんだろうか。こんな基本的な能力まで失ってしまったのだ。その後、これは犬、これは子供ねと足跡を見つけては推測する楽しみを知った。

水汲み場
 
このような土地の生活で一番大切なのは水。
毎朝、女は水運びが大切な仕事。鍋を洗うのも、顔を洗うのも水は手のひらにすくえる量を使う。手のひらに水をすくい鍋の周囲をなでるように水をかける。もっと必要ならばまた手のひらですくいかける。大切に、大切に手のひらに水を載せて使う。
トイレは小便用として囲いがあるのみ。大は野原で。後は犬の食事となる。この地で無駄になるものはない。
背筋をピンとさせて水を運ぶ後姿がとてもきれい!
至福の時 カッチのタラ(星)
何しろ言葉でお互いに交流することが難しい。だが家族みんな何かと話し掛けてくる。それを私がリピートする。みんな可笑しいと笑う。そのうちお母さんが歌を私にリピートさせる。私も日本の歌をうたう。子供達に気に入られたのは象さんとか七つの子とかの童謡。ある夜私が一人でイスに座り星空を見ていた。いつも私が一人でいると誰かがやってくる。一人で居たいときもあるのに彼らは必ずやってくる。お母さんが寒いだろと布団を着せてくれるし、ムリンは寒いかと私の素足を彼女のスカートでつつみこんでくれる。乾燥した大地で暮らす人の手はかさかさしている。私はムりンの手を取り擦ってあげる。星がきれいと眺めつづける私にお母さんが歌を歌ってくれる。近所の女の子マテもやって来て歌を歌ってくれる。中でもマテは歌がとても上手。8分の1くらい早くパット声を出すのでメリハリがありとてもいい声をしている。その夜はみんな乗ってしまい何時までも歌声が途絶えなかった。私は満点の星空を眺めながら澄んだ美しい声をいつまでもいつまでも聞いていた。
でも困ったこともあった。それはねずみ。初日の夜、ムリンとまあるい屋根の部屋で寝た。寝るとき電気を消さない。私が消そうとすると駄目という。仕方がないかと訳もわからないままアイマスクをして私は寝た。でも暗い方がいい。そこで3日目の夜、電気を消してくださいとお父さんにお願いをして、消して寝た。そのあとドンドン、カラカラと激しい金属の音がする。始めはは誰かが外で何かをしているのかと静まるのを待った。だが一向に静まらない。そのうち私の周りを何かが走っている気配がする。慌てて「電気をつけて」と叫んだ。つまり電気をつけて寝るのはねずみよけだったのだ。 昼間はお布団をきちんとたたんで重ねます。
 また、時期が時期だけに、毎朝8時から9時ごろインドの偵察機が低空飛行で飛んでくる。一度はは家の屋根を覆うほど接近して来た。そのものすごい轟音はまるで私を目指して飛んでくるようで慌ててて家の中に飛び込んだ。ブジの街へ帰ってもたくさんの戦闘機が北西へ向かって飛ぶ音が絶えなかった。したがってツーリストもほとんどいなかった。でも、たいしたことは何も起こらずほっとした。
 私が訪れたのは冬なので、昼間は25度から30度くらい。だが気温差が激しく、夜は5度に下がる。お父さんが何枚もお布団を掛けてくれて寝た。夏は昼間、45度くらい夜20度だそうだ。決して住みやすい気候ではない。3年前出版された「ラストフロンティア」というこの辺りの写真集(著者はインドの方)で読んだのだが「女の子が生まれるとお父さんはお母さんがその児を処分するまで家へ帰ってこないことが現在でもある」と書かれていた。現代?と驚いたので気になっていた。ガイドのサリムに尋ねると「今はそんな事ないですよ」と言っていた。でもこの家族と数日共に生活をしたのだが、両親の娘と息子に対する態度は微妙に違っていた。娘はもくもくとお母さんのお手伝いをするのみ。出かけることは水汲み以外なかった。学校も男の子のみ。私は「女の子は学校へ行かないの」と尋ねたが「女の子には別の学校がある・・・」と何か口を濁すような答えで、女の子が学校へ行っているのは見かけなかった。私のお世話になった家へ遊びにくる女の子もいつも弟を抱っこしてきていた。自然環境が苛酷なだけに働き手の男の子は大切にされ、男女の差別意識は明らかだった。
 この家族の収入は長男の炭焼きと時たま注文がくるお父さんの皮工芸のみ。インド政府もハリジャンの就業を無視しているのではない。このお父さんも3日間、アーマドバド(この州のセンター)で講習を受けたのだと言うレザークラフトのサティフケイションを見せてくれた。また上流のインド女性が組織したグループが各地に十数個あり、村の女達に刺繍や刺し子の素材を全て提供して現金収入を得る手助けをしている。この地方ではシュラジャンさんという80歳代の方がデザイナー、材料調達係、販売と組織して村の女達に刺繍をさせ現金収入の援助をしている。
 私の御世話になった家族はつつましい収入の中でとてもきちんと生きていた。家族と力を合わせて本当に少しの物質でそれを大切に使い生きていた。パキスタン北部のチトラルに住むカラシュ族、タイ、ベトナムの山岳民族と、少数民族を訪れたことがあるが、この家族はとても勤勉だった。この家族が特別そうだったのかもしれないが、与えられた環境の中で一生懸命生きている姿はとてもすがすがしかった。私たちの住む地球上にまだこんな人たちもいるのだ。後日、ラバリ族の村へも行った。この村はツーリストが多いせいだろうが、お金をせびられるだけでメグワルの人たちの良さを再認識した。
                                                      おわり
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