アンティーク沙羅 
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 イスファンで居候             2001年7月  イラン 
 
アケメデス朝のシャー
イスファンに着いた翌日の朝一番に友人のマホメットの所へ挨拶に行った。

何しろ彼が私のイランへの招待者である。ビザを個人で取得するのには招待者がいるのです!
何か私にあるとまず彼の責任になる。

「どうしてイスファンへまっすぐこなかったのか」とまず彼の苦情。
「だって、バム、ケルマンへ行きたかったからパキスタンから陸路で入ってきたんだもん」
どうしてそんな危ないことをするのだ」
「ごめんなさい」
「まー無事で良かったけど」
「でもあの陸路も経験したかったのよ。私の旅は五感でしたいの。だからあの暑さも経験したかった」

「もういいよ。ヤズドからでも電話すれば迎えにいったのに」
 
 
更紗の山
気が許せる、10年来のいい友達なので私も相当わがままをいえる仲である。

彼はイスファンのイマーム広場から続いているバザールの骨董屋さん。
私のテキスタイル好きを良く知っていて早速店の奥へ連れてゆく。

すばらしい草木染めの壁掛けを見せられつい 「いくらなの?」 と言ってしまった。
結局ペア‐で買い、散在したのだが。
次から次とペルシャ更紗、手織りベルベットと見せてくれる。3年ぶりに訪れたのでまた新しいいいものがたくさん入っていた

彼のお父さんが住んでいる家の一室が倉庫になっていてそこまでチェックしていると何日もかかる。
 
「普通のバイヤーには一風呂敷しかみせないのだよ。迷って時間が掛かるだろう。でもマサコは特別、好きだもんね」
「だいたい何枚もっているのよ。この倉庫だけ?」
「もう一つ店の裏にも倉庫があるよ」
あまりにもさまざまなペルシャの布を見たので、日本の人達にも見せたいなと思った。
イベントとして出来ないものかと考えたが全くそのような経験がないので可能かどうかすら判断できなかった。
でも取りあえず写真を取ろうと思った。
それに今回は一枚のペルシャ更紗についてバックグランドを調べるのも大きなイスファンへ来た目的だった。
 
 
イマーム広場を臨む屋上のチャイハネ
マホメットの店には弟、甥、雇い人がいるので彼が店に何時もいる必要は無い。
何かあれば携帯電話に連絡が入る。
マホメットはもういいからと言っても毎日毎晩、私の夕食まで付き合って帰宅するので、少々彼の家庭生活が心配だった。

以前から彼の家へ泊まれと言われていたが窮屈な思いはいやなので辞退していた。
でも今回は長くなりそうなのでマホメットに言った。
「私に一部屋くれるのならあなたの家に泊まってもいいよ」
「もちろん。でもほんとうにそれでいいか?」
「ウーン長くなりそうだし」
ということになり何度かお邪魔したことのある彼の家へ私の荷物を運んだ。
 

彼の家は鉄筋の3階建て。彼の家族は3階に住んでいる。
3年ぶりに会った娘のモシュテが大きくなっていた。
前回会ったときは7歳だったので10歳になったのだ。以前は幼児と言った感じだったのに今回は少女になっていた。
奥さんのノーウジェも大喜びをしてくれた。
そしてついに私は1ヶ月も居候を続けたのだった。

 彼のすぐ上のお姉さんが原因不明の病気で下の階にあるお母さんの家でベッドに臥せていた。
皆が私に何の病気かと尋ねるがわからない。
足も手もまぶたまで動かないのである。私はストレスだと思った。
このお姉さんは27歳の時、最初のご主人を交通事故で失い、4年前、再婚した相手をガンで失ったのだ。
5歳と9歳の子供を抱えて、イスラムの男社会の中で女一人が生きてゆくのは大変だと思う。
私立の幼稚園の先生をして生計をたてている。
マホメットに「私はストレスだと思うよ。病院へ行ったの」というと
「病院の先生も分からないというのだ。血液の病気かもう一度検査すると言っていた」
以前にも会ったことがあるお姉さんなので私も心配だった。

まず私に出来ることはマサージだと思った。毎朝30分くらいマッサージをしてあげた。
将来の不安と孤独に苛まれているのは確か。肌のふれあいだけでも安らぎを感じるはず。
ある朝そのお姉さんの所へ行くと泣いていた。
「だめよ。さー笑って。泣くと余計悲しくなるよ。何も心配しないで。笑って」
と言ったらお姉さんも無理やりの作り笑いをしてくれた。
それ以後、私の顔を見るとお姉さんは何時も笑ってくれた。

私がお姉さんの所へマサージに行くと、そのお姉さんの子供2人、弟さんの子供2人それにモシュテが集まって来る。
子供達にヨガ、腹式呼吸をたいした知識もないのだが教えると子供達は喜んで毎朝「マサコ、マサコ」と集まってくる。
お母さんの部屋は集まりごとが出来るように40畳はある広い広い部屋。
その部屋でヨガの先生とマッサージ師が私の朝の日課となった。

彼の所有している特徴的テキスタイルの全ての写真を撮るのに1週間も掛かった。
 その後は私のペルシャ更紗の取材。
現代の更紗の工房へ行き昔との違い、インド更紗の影響を尋ねたり、炎天下ザ‐ヤヘンデ河の上流で煮染めをしている所まで行った。

この年は水不足でザーヤヘンデ河はひあがっていた。90歳になるお父さんもこんな状況は経験が無いといっていた。
いつもは夏でも水がたゆたゆと流れ、夕方は多くの地元の人たちが夕涼みを楽しむ場所なのに。
マホメットが何度も「水のないザーヤヘンデ川は見苦しい」と言っていた。3つのすばらしいアーチを持つ古い橋も干からびてかわいそうだった。
それでもこの周囲は緑が多くてツーリスト、地元の人の憩いの場所であった。

時には私は外を歩きたいので、マホメットが店へ行く時ザ‐ヤヘンデ河まで車に乗せてもらい、緑の中を散策した。
その年はツーリストが少なく見かけなかったが、地元の引退したおじいさんグループが木陰に座り込みお喋りを楽しんでいた。
本当は絶好のデートコースなのだがこの国では結婚前の男女交際は禁止されている。基本はだが。


 ザーヤンダ川沿いの公園
 毎日がのんびりと過ぎていった。
この国はシーア派のイスラム。太陽にそくした生活とお祈りをする。
お正月は太陽が春秋の分岐点を通過する春分の日。
お祈りは朝の陽が登る前、太陽が真上に来る昼、太陽が沈む夕方の三回。
太陽は毎日移動するのでこの祈りの時間はアザーンとラジオでその時を知る。

夕方太陽が沈み、まだ西の空が茜色に染まっているとき、街中に響き渡るアザーンは格別に趣があり好きだ。
ベランダに出て西の空を見続けていた。

今、日本では聞かなくなったが振り売りの声、たとえば「キンギョーエ、キンギョ」と言った金魚売りが通りを歩く声。
これと同類の声を時たま聞くので、奥さんに尋ねるとやはり物売りの声。
この声を聞くたび「アレは何を売っているの?」と尋ねた。
中には「仕事はないですか」と言っているのもあった。のんびりとその売り声は通りを歩いていく。
遥か西にあるペルシャで懐かしい、昔の日本の情緒を見つけた。

マホメットの奥さんが3食美味しい食事を作ってくれた。
嫌いという訳でもないのだが、日常私はあまりお米を食べない。

旅行中出会うロングライスよりやっぱり日本の香り豊かなお米が私にとっては美味しいと思っていた。
だが、だがここイランのお米は違っていた。
ロングライスなのだが炊き方が違う。美味しい!
電気釜もあるそうだが、不味いのでマホメットの家ではガスで炊いていた。
洗ったお米を水が無くなるまで煮る。ここまでは普通。だがその後が違う。
オイルを少し入れて掻き混ぜ、お米の中央に蒸気が抜けるよう穴を作り、かわいいフリルの縁どりがある丸いお布団の蓋をして弱火で40分から1時間炊くのだ。
お鍋の底にこんがりとしたおこげが出来る。
これが最高に美味しい!
時には鍋底にポテトの薄切りを敷く。またまたこのポテトも美味。
ご飯も臭みがなく、もち米のようにモチモチしている。
この国ではおこげはお客さんに出すものだそうだ。
私がビタミンCの補給にレモンが欲しいというと、毎食緑の小ぶりな酢橘のようなレモンを出してくれる。
おこげにレモンをかけて食べるとまたまた美味。
もちろん副食に鶏肉の野菜煮込みやみじん切り野菜たっぷりのオモレツ等を作ってくれる。
毎食トマトとキュウリ、サラダ菜のサラダも添えられる。
ロングライスはさまざまな種類があるのだろうが、イラン飯は美味かった!

 果物も見た目は日本の物と比べると良くないが、味は桃もぶどうもさくらんぼも甘い。
私が「日本では果物の品種改良が盛んで、見た目もきれいになるように作るのだよ」というと、
「ここの果物は美味しいのだからそれで十分。甘いだろ。一日の気温の温度差があるから甘いのだよ」とマホメットが教えてくれた。

こんな食事の合間「マサコ、コーヒー?、果物、アイスクリーム、ケーキ?」と奥さんは気を使ってくれる。
何時もの旅ではやはり体重が落ちるのだが、イランでは増えてしまった。
 尋ねたいことは気が付いたときメモをしておいて、マホメットが帰ってくると通訳をしてもらって、お母さんやお父さんから昔の生活の様子を聞いた。
何処の国も50年前には結構大変な生活だったようで、お母さんがその時を思い出し涙を流していた。

ハンマーム(公衆浴場)の話を聴いた時、お母さんは無駄毛の取りかたを糸を使って実演をして見せてくれた。
今ではお化粧もご法度の国だが昔はおしゃれだったのだ。

 ほとんど私は家にいて本を読んだり、パソコンを打ったりしていた。
時折夏休み中の子供達が集まってくる。子供達からペルシャ語の書き方を教えてもらった。
ペルシャ語のアルファベットはアラビア語より3文字多い。
一文字づつあのミミズ文字を書いた。とりあえず自分の名前は書けるようになった。
だが単語ごと続けて書くとまたもやミミズ化して分らなくなる。
ペルシャ語の単語を教えてもらっていると、
子供達は「マサコ、日本では何ていうの」と聞かれる。
教えると、次から次とモノを持ってきて「これは日本語で何て言うの」と聞く。
彼らにとって日常のモノが日本では違った言葉で呼ばれるのが不思議なようで、ありとあらゆるものを持ってきた。
ついにお母さんのノージェが「マサコが疲れちゃうよ。もうやめなさい」と言った。

奥さんのノージエはシラーズ出身で実家に帰りたくて
「マサコ、シラーズへ行こうよ」と何度も言っている。でも前回も行ったので

「カスピ海なら行ってもいいけどね。シラーズは今回は行く予定ないのよ」と言った。
でもシラーズの良さを奥さんは片言の英語でなんども言っていた。

娘のモシュテが夏休みなので
「じゃーカスピ海へ行こうか。夏には必ず一度は行くのだから」とモハメットが言った。
 
カスピ海  カスピ海の田んぼ
 翌朝5時半、モハメットが運転、ノージエ、モシュテ、お母さん、私の5人でイスフアンを出発。
途中8時半、小さな木が生えている側にシートを敷き朝食。
私が朝はコーヒーと果物、ヨーグルトを食べるのだというとそれを毎朝準備してくれていたが、ここまで来ても、ちゃんと私の朝食を持参してくれていた。

テヘランに10時ころ到着。そしてテヘランから北へ進み、標高2500mの峠を越えるとカスピ海。
峠には4000mの山々が万年雪を抱いていてとても美しい景色だった。
寒いくらい涼しかった。
カスピ海へくだり始めると緑がどんどん多くなってきて蒸し暑くなった。
カスピ海周辺はまるで日本。
田んぼばかり。蝉まで鳴いていて「ワオー日本だ!」とイランという国の多面性を経験した。


宿泊する借り別荘は海の側。
砂浜に続く場所なのに別荘の周囲は3mの塀で取り囲まれ中が見えないようになっている。
したがって海が見えない!砂浜に続く鉄のドア‐を開けて海を見るのだ。
しかもこの国は外国人のツーリストも女性は手と顔以外を隠すことが義務づけられている。
この鉄のドア‐を出るときはコート、スカーフまたはチャドルを身に付けないといけないのだ。

さっそくモシュテは「泳ぎたい」と言っている。
「私も泳ぎたい!」
女の子は9歳までは子供とみなされて水着で泳ぐことができる。
モシュテは10歳になったので人前では顔と手以外は出してはいけないのだ。
したがってパジャマのような薄手の長袖にズボンをはきスカーフをしてモシュテは泳いだ。
男性はピチピチの水着を着ているのに!

マホメットとモシュテが泳ぐのを見ていたが、暑いし、目の前の気持ち良さそうな水を見ていると無償に私も泳ぎたくなった。
「私も泳ぎたいよー」とぶつぶつ言っているとマホメットが
「その格好で泳ぐならいいよ」と彼は冗談でいったらしいのだが
私は黒のロングコートを着て、スカーフをしたまま海へ入った。
マホメットもモシュテも目をまるくして驚いていた。

   海と呼ばれているが実際、カスピ海は大きな淡水の湖なのだ。
したがって塩の滑っとした感触ではなく、さらりとしていて気持ちが良かった。
ただし衣服を全て身に付けているので、泳ぐのは大変だった。ただ水に浸かっているだけだった。
水からあがるとまるでどぶねずみ。格好悪い。

監視人のような人がいて、Tシャツの半袖で泳いでいる女性は注意されていた。
いつまでこのような状態が続くのだろうか?
何か不自然で滑稽な女性達の姿だった。
大人の女性は暑いのにチャドルやコートを着て子供達、男性が泳ぐのを見ているだけだった。

このような国であることは十分認識してはいたが、この現実に直面してとても怒りを感じた。
でも私はただのツーリスト、このような国に来たのだからただ従うのみだった。

近くの森にはキャンプ場、乗馬などがあり、久しぶりに木々の間を馬で掛けぬけた。
夜は毎晩バーベキュウパーティ。お酒もだめの国。ひたすら食べては寝ていた。
皆、することはないのでお母さんから昔の話をたくさん聞くことが出来た。

4泊5日ここにいてテヘランのマホメットのお姉さんの家で昼食を御馳走になった後、イスフアンへ帰った。

マホメットの家族は皆、とても気持ちの良い人達ばかりなので、居心地はとても良かった。

1ヶ月もいると私までこの家族のライフスタイルにすっかり組みこまれ、ますます居心地が良い。
でも帰らなければ、ここで何時までも住めるわけは無いしと、重い腰を持ち上げ8月8日のテヘランとカラチへのフライトチケットを買った。

マホメットのお姉さんも大部良くなり歩けるようになったので自宅へ帰っていった。お姉さんは
「マサコ、私の家へ来てよ」と何度も言っていた。イスフアンを離れる前夜お姉さんの家を訪れ、
「リラックスよ。先は何とかなるわよ。こんなにかわいい2人の子供がいるのだから」というと
「わかったわ。リラックスね」と笑いながら自分で足をマッサージをしていた。 

 カスピ海の夕日  翌朝7時マホメットとノージエが空港まで見送ってくれ私はテヘランへ向かった。  おわり